優等生のふらふら人生録

人生色々あるから、語りたいことも一貫性ないのが悩みなブログ

オーストラリアの恋愛事情と恋愛英語

恋愛って異文化の体感だ

私は大学時代の4年間をオーストラリアで過ごした。決してたくさん恋愛したわけではないけれど、やっぱり見聞きすること含めて、驚いたりおもしろかったり時には抵抗を感じたり。恋愛って、相手が誰であってもだけど、そして相手とかがなくてもだけど、異文化交流がぎゅっと凝縮された体験だって気がする。「日本と違うなあ」と感じた点を振り返りつつ、思うところを語ってみる。

(参考)大学時代、自由にマッチングアプリを楽しむ人たちが周りに多かった話↓そしてちなみにニュージーランドで過ごした高校時代は恋愛をしてなかったから全然語れない。

(参考)ゲイの友達を通してマッチングアプリというものを知って考えた話↓

 

”交際”の形の違い

元も子もないことを言っている気もするけれど、日本でだって、恋愛の在り方、交際の在り方は多様化していると思う。でもオーストラリアにいて日本と違うと感じたのは、そもそも”正しい形”とか”理想の形”とかそういう一つの解がないからこそ、自由なんだなということだった気がする。

 

告白」みたいな文化が西洋にはない、っていうのは有名な話かなと思う。でもこれって、少なくともオーストラリアにおいては、別に「”デートを重ねているから”とか”身体の関係があるから”、付き合ってくださいとは言ってないけど彼氏彼女だよね」という意味じゃない。端的に言ってみると、「一対一での彼氏彼女」以外に、交際には色々な形があるということ。

 

例えばまず、真剣交際に至る前に「デーティング」っていう試用期間のようなものを持つことが一般的で、この期間中にはデートもするし肉体関係も持つけど、複数人同時に”お試し”したりもする。特定の相手と真剣交際に至っても、それ以外の人とも肉体関係を持つことを認める「オープンリレーションシップ」という形も受け入れられていたり、お互いへの恋愛的な好意があってデートをして肉体関係も持つのだけれど彼氏彼女ではない「カジュアルリレーションシップ」というものもあった(セフレ以上恋人未満という感じ?)。つまり、友だち以上の関係性を持つ2人がいても、それが実際にどんな関係性なのかは、本人たちにしかわからない前提なのだ。

 

個人的な印象だけれど、人生における「結婚」という制度の重要性が高くない文化であることが、一定影響しているんじゃないかなと思う。夫婦ではないけれど長い長い期間を共に過ごしてきた2人だとか、子どもがいても結婚しない2人だとかも珍しくないし、新しい恋人のいるシングルペアレントステップファミリーも多い。「夫婦」であるかどうかより、「パートナー」であるかどうかが違いになる気がする。だからこそ、”ただの”彼氏彼女であっても、家族の輪に入れることが一般的だし、「パートナー」には至らない交際関係もアリなのだ。

 

私は定義として、真剣交際・パートナーとは、相手の人生に対する責任や義務が発生することを本人たちが了承し合い、それと向き合うことだと思う。その定義の実現の上で、きっと、その関係性の名前やステップは、本人たちにとっては重要じゃなくなるんだろうな。

 

 オーストラリアには”マイノリティ”が多いのか?

男女交際の在り方の多様さに加えて、同性愛性自認についても、オーストラリアでは色々なケースを見聞きした。それに比べて日本では、「一対一での彼氏彼女」以外の交際関係を指向したり実践したりする人が”マイノリティ”と呼ばれて、日々の社会においてはまだまだ、いないものにされることが多いと思う。でもその事実を、「オーストラリアは自由な風土だから、日本より”そういう人”が多いんだね」と安易に言われるのを聞くのは、私は嫌だった。

 

オーストラリアの都会は、比較的、開放的に生き易いと思う。州単位ではかなり以前から同性間のパートナーシップ制度を定めていたりしたし、今は国として同性婚も合法だ。たぶん信心深い人が多くないことが前提になっている上で、色々な人種や文化が交わり合って生きていくことに肌で馴染みがあったこと、その不可避性に早くから気付かざるをえなかったことが背景にある気がする。そして世界中から多様で多数の学生が集まる都会の大学では特に、セクシュアリティを隠さない人が体感として多かった。だって”マイノリティ”であることを隠す必要があるのは、それが自分の属する社会において損失に結び付く場合か、文化的に異質さが嫌悪される場合だと思うのだけれど、多様性が名実共に確立された社会ではそれらが当てはまらないのだ。

 

これがどういうことかと言うと、”マジョリティ”に対する”マイノリティ”があるのではなくて、あくまで全ての人がお互いと同じように、多様性を構成する一員になるということなんだと思う。だから、色々な人がいることが見てわかる。そして、今の日本は、そういった多様性を前提とした社会ではないから、”マイノリティ”は”マイノリティ”にしかならなくて、そのことによって得る損失もしくはリスクが大きすぎて、オープンになれないことが容易に想像できる。

 

「オーストラリアだからゲイが多いんだね」って言葉ではなくて、感心すべきはオーストラリアが国として模索してきた在り方が形成した文化的かつ制度的な外的環境であって。そういう捉え方が共感されると嬉しいなと思う。

 

私の経験したオーストラリアでの恋愛

色々語ってみたけれど、結局私は、日本の社会で価値観を育てられた後に日本を出ただけだから、オーストラリアの全ては異文化だった。例えば目からの情報として、公共の場でも発情しているとしか思えないほどいちゃいちゃするカップルだったり、友だちの(つまり私だ)目の前でも別れのキスをできることだったり。それが老若男女問わないことも驚きだった。

 

恋愛というほどではないけれど自分の経験で言うと、男性からのアプローチもやっぱり違った気がする。距離感の詰め方が基本的にすごく速くて、”徐々に”とか”匂わせる”とかって概念がなくて、びっくりするほどいきなり、デートに誘ったりパーソナルスペースに入って来たり。でも一方で、はっきり興味がないことを示すと、あっさり離れて行って何事もなかったように元に戻ったりするのもおもしろかった。

 

そして周りの恋愛話がおもしろかった。ゲイの友だちの、アプリを通した奔放な出会いについては以前書いたけれど(マッチングアプリ批評)、それ以外で特に印象に残っているのは、ある同い年の男女カップルかな。彼氏彼女として交際していた彼らは、二人とも大学に入って初めて恋愛をしたタイプで、横で見ていても真っ直ぐでピュアなカップルだった。なのだけれど、1~2年経ってから、彼女の方から彼氏に、他の相手との肉体関係を認める「オープンリレーションシップ」を提案した。その理由が、彼女に、生まれて初めて気になる女の子ができちゃったことだったのだ。彼氏の方も悩んだ末受け入れて、彼女は彼氏がいるのだけれどある特定の女の子とも肉体関係を持つことになり、彼氏はTinderで適当な他の女の子と関係を持つようになった。お互いに自分自身とそして相手と真剣に向き合ったからこそ、そういう関係に合意したということが、難しいだろうけれど素敵だなと、今でも思う。ちなみにその後、一度別れた後、一対一の彼氏彼女に戻ったらしい。

 

異文化を知った上で思うこと

ニュージーランドで過ごした高校時代の話にはなってしまうけれど、彼氏とキスをする友だちを目の前で初めて見たとき、私は抵抗感、もしかすると一種の嫌悪を覚えた。孫がいる年齢のホストマザーに”Boyfriend”と呼ぶ相手がいることにも衝撃を受けたし、二人が同じベッドに寝ている事実が好きじゃなかった。大学に入ったら、女の子たちの胸や脚の露出が激しい服装を見て「綺麗な脚でもないのに何で」と思ったし、彼女がいるはずの男友だちの、他の女の子との距離の近さを見て、どこか軽蔑したりもした。

 

人には、自分が育ってきた環境に紐付く価値観がある。それと異なる文化に触れた時、新しいものを知った時、それに抵抗感や違和感、時には嫌悪感を持つことは、本能として一定仕方がないと思っている。自分にとって危険かもしれないからだ。でも異文化交流というのは、自分の本能に従うのではなくて、単に異なる文化なのだと知って自分への危険ではないと頭で理解して、それによって、相手の価値観を受け入れることだと思う。同意したり共感したりする必要はない、理解して受け入れることなのだと思う。

例えば私は、デーティングの文化も、そこから彼氏彼女への移行には「告白」という手順を必ずしも必要としないことも、苦手だ。相手を好きになればなるほど、今の自分たちの関係性に名前がつかないことが不安になる。同じ認識かどうかを言葉ではっきり話し合うしかないことが辛かった。私は未だに、大学時代に初めて”交際”した相手が、私の”彼氏”だったのかどうかを知らない。日本人である今の夫に、マニュアル通り3回目のデートで「付き合ってください」と言われたプロセスは、私にはとても快適だった。でも私は決して、デーティングの文化を否定しない。友だちの前でキスもしないし露出の激しい服装もしないけれど、見ることについては慣れたから、好きじゃないけど嫌いでもない。

 

反対に、私はオーストラリアの恋愛文化で使われる「パートナー」という言葉が大好きだ。これは、今でも使うようにしてる。男でも女でも関係無いし、婚約しているかどうかとか、結婚しているかどうかとか、そういう二人の指向や関係性を定義しない。ただ純粋に、真剣に人生を共に歩んでいる相手ですよと伝えられる言葉。使う人たちを素敵だと思ったし、その言葉以上に聞く必要がないことをオーストラリアで実感したから、私は夫のことをできるだけパートナーと呼んでいるし、一般的な会話の中でもパートナーという言葉が好きだ。

 

そして何より好きなのが、やっぱり、一つの正解だけではないと社会が受け入れているということ。私は今、異性との結婚という制度に身を置いているけれど、これは私個人の選択であって、結果として古典的な道だっただけ。他の無数の自由な形があること、それがあると知っている環境で大きくなれることだけを取っても、オーストラリアの魅力だなあと思う。

 

恋愛に使うおもしろ(?)英語

恋愛と異文化について考え、「パートナー」という言葉や「デーティング」の仕組みについて語ってみた上で、他にも、暮らしたからこそ「おもしろいな」と思った言葉やそれに伴う文化ってある。何となくそれらのニュアンスをまとめてみた。主観だから、間違いやオーストラリアや若者独自の意味合いもあるかもだけれど、その点はご了承いただくとして。

何となく恋愛に関する英語翻訳一覧化(主観)

CuddleとかSpooningとかHave a crushとか可愛い言葉が色々あって難しいのだけれど、がんばって特記する5つを厳選してみた。

<Hug>

西洋の人って誰にでもハグするイメージがあると思うのだけれど、やっぱり、恋愛的なハグとそうじゃないハグは全く違う。私の印象では、”Hug”を動詞として使う時は”抱きしめる”って感じ。高校生の頃に仲良くもない男の子から急に「Can I hug you?(抱きしめていい?)」って言われた話を友だちにしたら、やっぱり「キモッ!」って感じの反応だった。でも”Give a hug”だと日本語で言うハグ!って感じ。落ち込んでる時に「Oh poor Amy, let me give you a hug!(可哀想に、ハグしてあげる!)」とか友だちに言われたら嬉しい。間違えると怖いニュアンスなところにこそ、異文化を感じる。

 

<Flirt>

遊び歩いてる(浮気してる)みたいな意味もあるけど、私が文化として好きな”Flirt”は、「なんかそれっぽい、つまり男女間のいちゃつきっぽい雰囲気でお喋りしたりちょっと距離を詰めたりするのを、お互いが楽しむ」って感じ。真剣なアプローチとか恋の駆け引きじゃなく、「お互いそういう感じの興味があるんだな、ドキドキ、でも真面目に捉えず今を楽しもう」っていう、何か恋の一歩手前と言うか、身体を許さない火遊びというか。日本でもあるとは思いつつ、それに言葉があるのがなんかいい。

 

<Go Out>

単に”外に行く”とか”デートに行く”とかより、所謂”恋人として付き合う”って意味で使う時が楽しい。ずっとデートしてたけどやっと真剣交際を決めた友だちに、「So you are now going out with him? Like boyfriend and girlfriend, right?(今は付き合ってるのね?彼氏彼女ってことよね?)」とか聞くのはワクワクする。

 

<Be with / Together>

Go out”は「付き合う」って言うある意味軽いというか若い感じだけれど、もっと真剣というのか継続的な感じのニュアンスの言葉がこっち。「How long have you been with him?(彼とはもうどれくらいなの?)」とか「They've been together for 5 years already.(彼らもう5年ずっと一緒なの)」とか。”Be in a relationship”は含みを持たせる言葉だから肉体関係を匂わすことも多い気がするけど、こっちは真面目な話の中で使う大人っぽい言葉って気がして、好き。

 

<What Are We?>

「告白」とかって明確なステップがなく人によって交際の形も関係性も違うから、やっぱり英語話者同士であってもどれだけ2人の関係が深くても、結局相手が自分とどうしたいのかわからないことは、多いみたい。恋人なのか、今だけの付き合いなのか、他にも誰かいるのか。そういう時、「So, what are we?(私たちって、どういう関係性なの?あなたはどういうつもりなの?)」って聞けと教わった。「I prefer to make this relationship exclusive.(お互いだけとの交際にしたい。)」とかもあると思う。自由だからこそ、言葉、会話はきっとすごく大事だ。そこを諦めると辛くなる。どんな恋愛でも同じかもしれないけれど。

 

恋愛を通して異文化を知るって本当におもしろい、Eye Openingだった。と言いつつ、大学時代にまともな恋愛経験を積んだわけではないのだけれど、見聞きできたものは、色々な思いを巡らせる糧になってる。その上で日本男子をパートナーに選んだ理由などは、そのうち改めて、書いてみたい。