優等生のふらふら人生録

人生色々あるから、語りたいことも一貫性ないのが悩みなブログ

人生を味わい深くしてくれた本(おすすめ)

今週のお題「わたしのコレクション」

本は人生に寄り添ってくれるから捨てられない

私はモノに固執しないタイプだと思う。人との思い出も何かひとつ形あるものが残れば満足するし、寂しいことに趣味がないから集める対象もない。私はコレクションしない人間かなあ、と結論付けかけた時に、でも思い出したのが、どこに住もうと昔からずっと持ち続けてきた、本のことだった。特に思い入れがある本は、私にとってはモノじゃなく財産だなあと。その紹介をしてみる。

(参照)12歳の時から国境を跨いで引っ越しが多かったけれど、どれだけ荷物を捨てても本は捨てなかった時代の話↓

 

読書少女だった昔、習慣がなくなった今

物心ついたころから読書が大好きだった。毎週、図書館で上限の10冊本を借りて、帰り道に歩きながら本を読んだり、授業間の5分休憩に一瞬で机から本を取り出す代わりにトイレをがまんしたり(ほんとによろしくない)。漢字も言葉もそして感情も、学校ではなく本で覚えた。繰り返し読んだなと名前を挙げられるのは、飽きなかった「ドリトル先生」シリーズ、「小公女」とか「秘密の花園」とか洋モノの名作、ちょっと気取ったころに読み尽くしたはやみねかおるさん。初めて大人な(?)ドキドキをしたのは荻原規子さんの「勾玉三部作」と「これは王国のかぎ」だったな。児童書を卒業したら、こっそりのコバルト文庫時代、なんとなくの社会派ノンフィクション時代、とかもあったけれど、ドはまりしたのは歴史小説で、最終的には飛鳥時代と幕末が特に好みだった。いややっぱり安土桃山も源平も捨てがたい。まあただ、とにかく雑食系で、時間を忘れて本の世界に没頭できる子どもだった。

 

でも12歳で実家を出て図書館に通えない環境になり、15歳で日本を出て新しい本に触れられなくなり。まだ電子書籍が潤沢ではなかったし生きることに精一杯だった時代の中で、読書は、私の日常から姿を消した。そして一度なくなった習慣は、大きなきっかけがないと戻ってこない。今も私は、Kindleがあってなお、本の世界に入り浸っていない。読書少女だった私は、決して読書を趣味だとは言えない、趣味のない大人になってしまった。

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紙で持ち続けてきた本2選

それでも私は、人生の色んな場面で、本に救われてきた。特に海外生活7年の間は、日本語で非現実の世界に浸ったり、日本語で考えたり整理したり。そして私は、夕暮れの優しい光の下で(・・・・・・日中は紫外線がきつ過ぎたから)、周りの人が全くわからない自分の母国語で書かれた本の、ページを一枚一枚捲る時間が、好きだった。読書は、癒しであり心の拠り所だった。必然的に、それまでの人生で出逢った大切な本は、紙媒体で、家から次の家に運び続けた。バックパッカー中も厳選した数冊を持って旅した。その中で、それぞれ全く違う意味で大切で、だからどちらもぼろぼろな、私の本について語ってみたい。

 

1:上橋菜穂子さんの小説

児童文学界の神様であり、けれど児童文学という枠を意識させることのない素晴らしい作家さんに、幸運にも私は幼いころに出逢った。上橋菜穂子さんの小説は全て、出逢って以来ずっとそして今も、私の思う本の素晴らしさを体現するもので、これこそは揃えずにいられない私のコレクションだ。

 

描かれるファンタジー世界の美しさと迫力。人々の生き様の繊細さ。人の醜さと弱さと哀しさ、美しさと強さと愛しさ。心、言葉、本能。それら全てが脳に直接届いてくる一方で何度でも同じ文章を読み返したくなる、そんな至高の体験を創り出す、丁寧かつ研ぎ澄まされた美しい日本語。うーん伝わるのかな。とにかく好きなのだ。私は、孤独もどうしようもない苦しみもそして愛も、彼女の本で知った気がする。そして歳を重ねる中で読み返す度、改めてその深さを味わう。そういう、人生を静かにけれど鮮やかに色付けてくれる”感性”というものを、彼女の本から得てきた。生きていることの感動を再確認したい時、私は上橋菜穂子を読む。

 

精霊の守り人」から始まる「守り人」シリーズが最も有名なのかな。私も読み返すたびに登場人物への愛の加速が止まらない。「獣の奏者」シリーズはさらに年齢によって感じるものが違ってくる気がして素晴らしいし、「鹿の王」も重くて温かくて世界観が圧倒的。彼女の作品はアニメ化や漫画化、実写化や舞台化まであって読者層の幅と熱さがよくわかるし、3月の新刊「香君」も心から待ち遠しい*1。そして写真が、「狐笛のかなた」。私が、書かれた言葉の一つひとつを味わい続けてきた、一冊完結の作品だ。

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本当は単行本の表紙がものすごく美しくてとても好き・・・・・・!

 

前述したその他の作品群は、読むのになかなかエネルギーが要る。壮大な世界の中で、孤独な人物たちが戦ったり抗ったり、苦しんだり求めたり。愛が軸だし救いもあるし前に進む人たちだ。けれどその世界に入り込む程に、自分が登場人物の一人ひとりに寄り添う程に、のしかかる人生が、思いが、あまりにも強すぎることがある。「狐笛のかなた」も本質は異ならない。ただ他の作品と違うのは、唯一和の世界観の中で*2、静かにひたひたと物語が進むという感覚。そして、過去や社会やその不条理と戦う人を描いたものではなく、それを跳び越えて、真っ直ぐに強く愛を追いかける少女と少年を描いた、切なく愛しい”希望”を前面に出した物語である、という部分な気がする。読後、心がほっと温かくなるのだ。

 

ネタバレしない範囲で、好きな一節がある。

 その横顔を見て、木縄坊は思わず目をそらした。ーーこの娘と、野火の行く末が見えたような気がしたからだ。

 この娘は、やさしい。後先を思うより先に、情で身体がうごいてしまう娘なのだろう。

 野火もまた、おのれの身を守るより、この娘をたすけてしまうような獣だ。

(・・・・・・この子らは、蜘蛛の巣の、細い糸の先でふるえている、透きとおった水の玉のようだ)

 そのあやうさが、半天狗の木縄坊には、哀しくてならなかった。

出典:「狐笛のかなた」上橋菜穂子 新潮文庫

こういう、静かで切なく、でも真っ直ぐにきらめくような小説だ。

 

最後に、上橋さんの描く世界の中で、共通することが多い愛の形を表現していると感じる一節を、別作品から引用してみる。生における他者との出逢いの喜びを噛み締める、そんな愛の表現だと思う。

 人として生まれずに、野に生きる獣として生まれていたなら、そして、風の吹き渡る野でアッソンと出会ったなら、私はきっと吸い寄せられるように彼に添い、愛し合い、子をなしていただろう。

出典:「獣の奏者 外伝 刹那」上橋菜穂子 講談社文庫

私は彼女の世界が大好きだ。

 

2:「人みな骨になるならば」

毛色が違うもう一冊は、小説ではない。ジャンルは何て言うんだろう、自己啓発本・・・・・・?何か違うか。ちょっとわからない。

 

思春期が辛かった12歳の頃から、周りとの言葉でのコミュニケーションが十分にできなかった高校留学時代の前半にかけて、私は毎夜ベッドでひとり、人生とは何かを問い続けていた。生きるって何だ?死ぬって何だ?なぜ人間はいる?なぜ宇宙はある?なぜ私は生きる?何のために?そして高校には心の底から神の導きを信じているクリスチャンも多かったから、嫌悪したり羨望の眼で見たり、忙しかった。話せる相手などいなくて、自分自身に問い続けるしかなかった。そして結論、「人生に意味なんてない。だから”今”を精一杯、味わい尽くせばいいんだ」とひとりで自分の答えを出して、すっきりとした気持ちで留学生活を楽しんだ(こう書くとすごく単純な人間みたいだなあ)。「ナマの事実」、英語で「Brute Fact」という概念をWikipediaで見つけて嬉しくなったのもこの時期だった。

 

でも不安だった。自分の答えでしかなかったから。正解だよと言ってほしくて、母に話した。その時に、「ああ、あなたが言っているのはこのことね」と母が貸してくれたのが、この写真の一冊だった。頼藤和寛さんの「人みな骨になるならば ーー虚無から始める人生論」。小林一茶の句に着想を得ているようなのだけれど、タイトルからわしづかみにされる。そして構成が、「第一部 まず破壊を」、「第二部 廃墟の中で呆然と」、そして「第三部 ここで踊れ」だ。うーん、改めて良いな。

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付箋だらけ。過去の自分のことも思いながら読み返せる

貪るように読んだ。ああ私だけではなかったのか、そしてこの人は私の思考をどうやってこんなにも言葉で表現できるんだろう、と嬉しかった。自分自身に繰り返し言ってあげたい言葉が多すぎて、初めて手にしたその瞬間以来、母にこの本を返していない。しばらく経って皮肉を言われた。

 

虚無主義と言うらしい。所謂(?)ニヒリズムだ。日本の高校では哲学の基礎知識を学ぶらしいけれど私は行かなかったから、初めて、自己完結ではない思想に触れた。人生に問いを抱いたことがない人が読んで「うわあ、いい思想だね」となる本ではないと思う。全体的にすごく強気なのだ。でも決して、生を諦めさせるようなものではない。とてもとても、前向きだから良いのだ。

 われわれは自分たちが「皆がい骨」であることを忘れようとして日常生活で大騒ぎし、世界を運営し、文化を築いているように見える。しかし、ひょっとすると、そのことを忘れないままでも日々を過ごし、世界を運営し、文化を築いていけるかもしれない。

出典:「人みな骨になるならば ーー虚無から始める人生論」頼藤和寛 時事通信社

 

この本自体の魅力を私の言葉で語る必要もないし、残念ながら私もそんな能力を持たない。だから私個人の琴線に触れるいくつかの言葉を引用してみる。過去の付箋が大活躍。

(前略)「知る」と違って「信じる」ということは不確かな根拠の上に我が身を預けることである。なぜそのような賭けに出るかというと、もちろんそれを「信じ」たいからで、それ以外の動機はない。(大幅に中略)われわれが信じていることが、信じざるを得ないことなのか、単に信じたいだけのことなのか、われわれには判別できないのである。

 われわれは、自分の生に意味や価値があるというほうに賭けるか、そんなものはないというほうに賭けるかしかない。(中略)筆者は、やはりたいした根拠もなく後者を選んだ場合の、めくるめくような認識上の冒険を勧めたいのである。

 おそらく、われわれは物理的・生物学的・社会文化的な操り人形なのであろう。そのことを否定せず、にもかかわらず、われわれはまるで他から操られていないかのごとく生きなければならない。

(大幅に中略)

 例外なくなにもかもが無駄であって一向にかまわないではないか。むしろ、無駄なら無駄で、少なくとも輝くような無駄でありたい。(中略)別にどうということはない、単にくすんでいるよりは輝いていたほうが気分がいいだけだ、と切り返せなくてはならない。

出典:「人みな骨になるならば ーー虚無から始める人生論」頼藤和寛 時事通信社

 

新しい何かを学んだ、生き方を発見した、そういう出逢いではなかった。けれど、私は頼藤さんの言葉に力をもらい、頼藤さんが存在したことに支えられた。そして、やはり触れておきたいのは、この本の本稿完成が2000年春らしいのだけれど、頼藤さんは、2000年5月に癌が見つかり、2001年に亡くなっている。医師を職業とされていた方だから、もちろん自身の死と向き合っておられた。その上で、あとがきに以下が語られている。人生に、勇気を与えてくれる人だ。

(前略)ガン告知や治療経過といった極限状況の前後で本書のスタンスを大改訂する必要はほとんど感じなかった。ふつう人生観が変わって、もっと絶望的になるか、逆に前向きの積極性が出るかしても不思議ではないはずだ。しかるに筆者の感想は「やっぱりなあ」であり、ただその切迫感・現実感が増幅されただけなのである。

出典:「人みな骨になるならば ーー虚無から始める人生論」頼藤和寛 時事通信社

 

”人生に寄り添ってくれる”の意味

本は、私の人生を変えたことはない。けれど、私の心を思考をそして生き様を形成してきた。本があったから、そこで得た感性の全てがあるから、私の人生は、味わい深い。そしてこの気持ちを、言葉で表現することもできる。

 

私は読書を趣味とは呼べない人間だ。でもそれを寂しいと思う程度には本が好きだ。そしていろいろな局面で私を救ったり支えたり背中を押したりしてくれる大切な本があって、私の人生から、これからも切り離せない存在だと思う。何もないときでも、本はある。大切な財産であり、”寄り添ってくれる”なんて傲慢かもしれないけれど、友なのだ。

 

また、本を読みたいな。

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(追記参照)何もないときでも、音楽もある。音楽の話もしてみた↓

*1:上橋菜穂子 公式サイト 木漏れ陽のもとで URL: https://uehashi.com/sp/

*2:「月の森に、カミよ眠れ」以来なのかな。