優等生のふらふら人生録

人生色々あるから、語りたいことも一貫性ないのが悩みなブログ

私の留学方法と生活[高校留学体験記②]

不安を勇気に、ハードルを経験に

海外に拠点を移すということは、15歳の私にとっても、そして親にとっても、決して軽い気持ちで実行できることじゃなかった。リスクも伴う。それでも「留学したい」気持ちを叶えるために乗り越えた、小さくはないけれど楽しかった最初の数歩を、振り返ってみる。

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[高校留学体験記]シリーズ

① 私が15歳で単身留学した理由

② 私の留学方法と生活 ←本投稿
③ 留学生活で楽しかったこと
④ 留学生活で苦しかったこと
⑤ 高校生での留学が意味するもの

 

1. 留学確定前の流れ

高校留学をすると一言で言っても、方法は無数にある。会社から行き先とポジションを与えられて移動するだけの海外赴任などとは違い、自分自身での選択が必要になっちゃうからだ。恐らく主には、学校時期滞在の形態お金、そしてサポートや保障

 

まず前提として、私にも親にも、海外居住経験はなかった。誰も十分な英語やその他言語を話せない、外国や留学に関する知識もない。加えて中学3年の夏に初めて高校留学を検討した私には、あまり時間もなかった。この条件の中で、知って考えて選ぶには、無数の方法と言いつつ、私にとって適切な道は限られていたような気もする。

 

私は結果として、まず第一歩、良いタイミングで良い場所で開催されていた「高校留学説明会」に飛び込みで参加した。行ってみたらそれは、特にオーストラリア及びニュージーランドを留学先として推奨していた説明会で、帰り道には早速まんまと、「ニュージーランドに留学したい」と高揚していた。そしてただの飛び込み客の相手をしてくれた、開催者の留学斡旋エージェント担当者がまた良い人で母が特にほだされちゃって、もう勢いで、そのエージェントを通した3年間の正規留学を決めた。ちなみにその担当の女性には、その後6年お世話になった。

 

2. 留学確定前に決めたこと

ニュージーランドが良いと思ったのは、穏やかでマイペースな人々と文化、多国籍のルーツ、美しい国土と人口より多い羊。つまり、競争社会で個人主義銃社会アメリカより、やっぱり国としては大きくて発展しているオーストラリアより、単純に怖くなくて、そして気負わずのんびりと楽しめそうな気がしたのだ。

 

そしてそこから、エージェントと留学への意思の確認や、中学校の成績・英語力の審査などを受けて、契約が決まった。いくつかの条件に沿って抽出してもらった提携校の候補の中から、私は、①町も学校も小さいこと、②留学生が少ないこと、③音楽に力を入れていること、で第一希望の学校を決め、学校の成績表、英検の結果、英語のエッセイを提出して入学審査を受けた。合格通知が来たと同時に、その学校への4月からの転入学と、その学校が提携している現地家庭でのホームステイが決定した。私が希望して、下見や親の渡航は一切なしにした。一人で歩み出す感覚を大事にしたかったのだ。

 

ちなみにだけれど、ニュージーランドは、Year 1(日本で言う年長さん)からYear 8(中1)までがPrimary School、Year 9(中2)からYear 13(高3)までがHigh Schoolとなる。だから、年度は1月始まり12月終わりなのだけれど、日本での高1~3の学年にあたる留学をするのであれば、何月に行こうと”転入学”になるから、そこはたぶん留意点。

 

3. 私がした留学準備
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しなきゃいけないことはたくさんあった。でもエージェントを通すことの意味は、ビザや公的書類の世話から学校とのやり取りから航空券の予約まで、不安になってしまう色々な手続きを、基本的にはサインをするだけで良い状態にしてくれること。加えて、独り暮らしをするわけではないから、引っ越しというのも段ボールを数箱送れば済む。私が主体的にした準備は、スーツケースを買うこと以外は、英語の勉強と、メンタルの強化だけだった。

 

英語に関しては、英会話を習ったことなどはなかった。けれど優等生だから、高校入学に役立つかと思って、”高校中級程度”と言われている英検準2級までは取っていた。一方で、オーストラリアでのホームステイ体験シリーズ①参照)の時に、やっぱり教科書の内容を理解することと、それを聞いたり使ったりすることは全く違うということの痛感もしていた。留学が決まってからやったのは、まず本屋に行って”高校3年分の文法”を凝縮したテキストを見繕い、とりあえず全て理解はしている状況にしたこと。そして最後の3ヶ月、当時はたぶんまだ黎明期だった”Skype英会話”サービスに登録して、料金が安かったフィリピンの先生とたくさん会話の練習をした。

 

メンタルに関しては、正直どうしようもない部分が大きかった気もする。だって何の想像もつかない。不安じゃないわけがないけれど、だからって何をできるかもわからない。ただ幸運なことに私は、日本を出ることへの未練より、人生で一番の解放感を味わえていた。そして内申点が要らなくなった今、中学でも言動が解放されたことを喜びつつ、何でだかその時期から友だちも増えて、なんだか浮かれてた記憶がある。不安でぐるぐる足踏みするのもそれを乗り越えた覚悟も、既に済んでいたシリーズ①参照)から、その事実に自信を持つようにして、その時期だけの緊張とドキドキを楽しんでいた。そして4月中旬、同級生たちが高校生になった後に、日本を飛び発った。

 

4. 暮らしと通学の環境

私が行くことになった高校は、ニュージーランドの2つの主な島のうちより自然が豊かな「南島」にあった。その中でも大きくはない町で、学校も、5学年合わせて生徒数が500人程度、留学生数は20人程度だったと思う。けれどだからこそ、平屋の棟がたくさん敷地内に点在している学校で、芝生が青く美しくて空が広くて、学校の周りは牧場ばかりで、そして敷地内から光る海と雪を被る山が同時に見えるような、そんな”豊かな”環境だった。

 

学校が、留学生を受け入れた実績の多いホストファミリーをあてがってくれた。学校から一本道を歩いて20分くらいの平屋一軒家で(”平屋一軒家”でない家はその町になかったけれど)、同じ町に孫もいながら自分もバリバリ働いているホストマザーが、一人で暮らしている家庭だった。学校までは大きな一本道で右にも左にも羊や馬がいて、車で送り迎えしてくれることも多かったものの、徒歩通学が楽しくて仕方ないロケーションだった。けれどスーパーまでは歩いて30分、町の中心部には1時間はかかって、しかもバスは1時間に1本未満だったから、車を持っている人に頼るか、いっぱい歩く生活だったな。ふくらはぎが太い3年間だった。

 

小さな町で、東洋系のアジア人はそれなりに目立って、たぶん日本人も、多くて両手で数えられるくらいしかいなかったと思う。そんな場所だったけれど一定安心できたのは、エージェントが各学校と提携する条件が、いつでも生徒の面倒を見れる日本人サポーターが圏内にいるということだったからかな。特に初期はとても心強かったし、お世話になったなと思い出す。

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5. 到着後の流れ

到着の初日は、日本からオークランドへの直行便から、クライストチャーチへの国内線に乗り換え、空港まで迎えに来てくれた学校手配のドライバーと、ホストファミリー宅に向かった。簡単な挨拶もままならず焦る中、その日本人サポーターの女性が来て日本語で話してくれて、本当に安心した記憶。

 

最初の数日で、サポーターに付き添われ、ビザの要件として必要だった健康診断を受けに病院に行ったり、銀行口座を開いたり、学校に行って制服の購入と授業の選択をしたりした気がする。留学生担当の先生への挨拶もした。ニュージーランドでは年度が4学期に分かれていた中で2学期からの登校を前提にしたスケジュールで渡航していて、到着したのは休暇期間だったから、ホストマザーにスーパーに連れて行ってもらったり、”ボーイフレンド”(お互い孫がいる)を紹介されて異文化を感じたりしたのもこの時期だった。

 

登校初日は、ホストマザーに学校前で車を降ろしてもらった後、その留学生担当の先生に連れてもらい、何もわからないままホームルームの教室でポツンと座った。その後の1時間目の授業はよく覚えていて科学だったのだけれど、教室がわからなくて到着が遅れ、みんなの目線を感じながら、空いていた教室のど真ん中の席に座ったな。そこで隣になったのが、高校時代の一番の友だちになる子たちだった。・・・・・・ちょっとドラマチックすぎるから、この話の詳細は次回だな。

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高校留学の方法も、結果何が最適なのかも、十人十色だと思う。けれど私が、不安と向き合いながら進めた数歩の勇気の話が、そして人に支えられて乗り越えたハードルたちの話が、誰かの興味や参考になればいいなと、こっそり思っている。

 

[高校留学体験記]シリーズ

① 私が15歳で単身留学した理由
② 私の留学方法と生活 ←本投稿
③ 留学生活で楽しかったこと ←次回 
④ 留学生活で苦しかったこと
⑤ 高校生での留学が意味するもの